> BLOG > 未分類 > 東日本大震災から10年 自衛官だった当時を振り返る 災害派遣、出動から救助までの経験
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東日本大震災から10年が経ちました。

もう10年たったのかと、その時体験した状況が薄れていかないよう、忘れないよう書き記しておきたいと思います。

当時の私は海上自衛官として護衛艦の艦橋で働いていました。

地震直後の緊急出航

1週間の訓練から帰港したばかり。上陸を目指して艦の整備を行っていた時でした。14時46分、その時艦橋横の甲板(ブリッジの外)で整備をしていると艦が揺れているのを感じました。不思議に思った私は立ち上がり周りを見渡すと、

艦艇を停泊させている桟橋の街灯が異常なほど揺れていて、桟橋を歩いている隊員達が中腰になり、バランスを崩さないような体勢で耐えていました。

すぐに地震だと気づきました。

艦内に居た隊員らが甲板、艦橋へさっきの揺れはなんだったのか?と続々と出てきます。

数分経った時、総監部から緊急出航の命令が全艦艇に伝達されました。

迅速に準備を始める艦長と幹部達、すぐに出港準備にとりかかる曹士、私も納めた航海用具を急いで準備します。

このとき乗組員の4分の1は、所要のため外出していました。

イレギュラーにイレギュラーが重なっていた状態です。

乗組員もままならないまま、艦長から出航命令が降ります。

常時なら、出港までに時間をかけますが、非常時だということを各隊員に叩き込むような出港でした。普段やっている出港要領を殆ど省いたからです。

船のエンジンをかけたと同時にもやい(係留索)が放たれます。

もやいが放たれたと同時に速足で港を離れます。

普段は最微速でゆっくりと安全を確認しながら時間をかけて出航するため、

この時の艦橋内は異様な状況に緊迫感が轟いていました。

港内は続々と出港する護衛艦で溢れ、目視でぶつからないように順に出港していきます。

このときの出航した理由は、津波を回避するためでした。

大型の地震や台風が来た時は、岸壁に衝突しないよう避難のため沖に避泊します。

が、出航中に東日本への災害派遣の緊急出航へと命令が降りました。

どこからか、艦橋にテレビが運び込まれ、津波、地震の状況を把握しながらの航海になりました。

テレビで流れている千葉方面の港火災の黒煙が実際に左手に見えています。

浦賀水道に入ると、長年の先輩も使ったことがない全ての船舶より優先される形象物を揚げ、緊急船舶の使用する赤色灯を回し最大戦速にて北上しました。

側から見ていた商船達は、パトランプを回しながらとんでも無い速力で続々と出てくる護衛艦、艦艇に大ごとだと確信したでしょう。

夜の8時頃には、福島沖を北上していたと思います。

遠い暗闇先に光る赤色灯、至る所から立ち上っている火災が海上からもよく見えていました。艦橋のテレビ映像から流れる現場の報道。

隊員はただ無言でその光景を目にし、宮城湾沖を目指していました。

被災現場到着、生存者救助開始

日を跨いだ深夜に宮城湾沖に着いたと思います、暗い海に無数の家、車、トラック、漁船、が浮いていました。 

探照灯、メガホンで生存者を探します。残念ながらどこからも声が聞こえません。隊員交代で捜索を続けます。

夜が開けた海は二度と目にすることのない光景が広がっていました。

深夜に目にした光景より数キロ先へも広がる無数の家、車、トラック、コンテナ、漁船が進路を塞ぐように漂っていました。

生存者救助が続きます。

同じく宮城湾沖に到着していた別の艦艇からは、スクリューにワイヤー、漁具が絡まったりとトラブルも続出、数隻が引き返していました。記憶は定かではないですが、タグボート等の小型船舶までもが出動していたと思います。

昼を過ぎると家や車、コンテナは沈み、家電製品が無数に浮き始めていました。

各艦はワイヤーや漁具等に注意しながら捜索活動を続けました。 地上からは黒煙が上がっていました。無数の余震も船の上でも感じていました。

試験を受けていた乗組員が洋上で合流しました。人数が揃ったところで、救助活動も力が入ります。

数日経った海は家電製品も沈み、今度は小さな生活雑貨が無数に浮いていました。

スマトラ沖地震の災害派遣に参加した先輩から、経験を元にした御遺体の捜索方法が伝えられました。

数日間生存者が見つからず、兄弟艦が男性を救助したとの報を受けた後は、御遺体の発見が相次ぎました。

冷たい海に浮かぶ御遺体は悲惨です。もし自分だったらと考えることもありました。瓦礫が原因で衣類もなく、体も悲惨な状態です。小さな御遺体もいらっしゃいました。

御遺体の揚収作業は艦に備えてある小型のボートで行います。内火艇で御遺体に接近し、網等で内火艇側面にくっ付けてから護衛艦まで運びます。 

護衛艦のクレーンで揚収するのですが、水を吸っているためとても重く大変苦労する作業でした。

救護員や艦長が御遺体の状態を確認後、数日間甲板に保管、

数日おきにヘリで御遺体を陸地に輸送する作業が繰り返されました。

乗員全員が冷たい海を彷徨う御遺体を早く水から上げてあげて、陸に返してあげたいとの気持ちで捜索を続けていたと思います。

残念なことに陸上に戻ったとしても悲惨な状態のため、身元がわかりません。探す人も少ないそうでした。

福島第一原発、放射能

捜索活動中は何度か、福島第一原発が目視できる近海を航行しています。

その際、艦橋にある、放射能測定器の針が振れていたのを覚えています。応急工作員が艦橋に持ってきていた測定器も音を鳴らしていました。

その頃はまだ、放射能に対する知識が広がっていなかったため、機械が壊れているのか、動いたところを見たこともなかったので、壊れていなかったね程度の話をしたのを覚えています。

陸上へ救助活動

搭載艦ヘリで陸上へ救助活動に出向いたのが、人生初のヘリコプター搭乗になりました。鮨詰めでコクピットの間に正座して乗っていましたが、ドアを開けて飛んでいたので、滑り落ちそうだったり、目の前のスイッチに当たりそうで、ヒヤヒヤとしたのを覚えています。

陸上は、海産物の腐敗した匂いや、山積みの瓦礫で悲惨な状況でした。

映像は見てはいても、匂いは伝わらないものです。

海苔、市場の海産物、全てが腐敗していました。

海面からありえない程高い山の中腹に漁船が引っ掛かっていました。

半壊して傾いている建物の二階で一家が暮らしていました。

何も言えずにひたすらに作業を行いました。

陸上での活動は海上とは比にならないくらいの惨状だったと感じます。

今でも、陸自自衛官の救助活動には頭が上がりません。

約半年間海上捜索が行われ、我が艦はソマリア沖海賊対処行動が予定されていたため、捜索活動から外れました。

2週間おきに補給のため、東北と関東を行ったり来たりしていた時、無慈悲に桜前線が北上していたのを覚えています。

ソマリアからの帰投と同時に自衛官を卒業しました。

一年後の東北被災地

その年もう一度、災害派遣で出向いた石巻に向かいました。

一年間で、瓦礫の山を撤去し、更地にできたことに驚きました。

無惨に広がる世界と、震災直後の状況を思い出しながら感極まり涙を出しながら歩いてていました。

そこでサラ地で暮らす男性に出会い話を聞く機会がありました。

被災直後の話、被災後の一年の話を聞いて、彼は子供含め家族全員を失っていました。

何度も死のうとしたそうです。

人はいつどこで人生を終えるかわかりません。それが自分でなくても、大切な人だったり、身近な人だったり。

話をしているときは、笑顔だったのがとても印象に残っています。絶望しても、前向きに力強く生きぬくということが身に染みて伝わりました。

桂島という、島民に死亡者が出なかった島があります。島の中腹までは壊滅状態です。商店を営む年配の女性は「わせねでや」と東日本大震災を忘れないでほしいとメディア等で情報を発信していました。

「わせねでや」忘れないでほしい、語り継いでほしい。

地元の言葉だそうです。

震災後の未来

震災をきっかけに人生が変わった方達や変えた方達が多く出ました。

また現在のコロナウイルスの影響でも、社会のあり方が変わってきています。

こういった状況下の中で、一生一度の人生を改めて考える方々が増えてきていると感じます。

あれから10年経ったことに驚いていますが、毎年この日は震災の教訓を忘れず、悔いのない人生を作り、大切な人達と幸せに暮らしていこうという意思を思い出す日にしています。

そして、より良い未来を過ごせるよう祈ります。

震災で被害に遭われた方達へ、追悼の誠を捧げます。

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